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初めて出版

 帰国して、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である「華英通語」の英語にカタカナで読みを付け、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した「増訂華英通語」を出版する。

これは福澤が初めて出版しました。

この書の中で諭吉はは、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「 」を用いていますが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなりました。

また、再び鉄砲洲で講義をおこないました。

しかしその内容は従来のようなオランダ語ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換しました。

また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこないました。

これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなっていました。

この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもありました。

文久1年(1862年)諭吉は、お錦と結婚しました。

お綿の父、土岐太郎八は、中津藩二百五十石の上士で、一方福沢家は十三石で、身分差別の厳しい中津藩にあたっては、異例の結婚でした。

同じ年の冬、竹内下野守を正使とする使節団を欧州各国へ派遣することとなり、諭吉もこれに同行することになりました。

その際に幕府から支給された支度金で英書を買い込み、日本へ持ち帰ってきました。

ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても、日本人にとっては未知の事柄である日常について調べました。

たとえば病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについて調べました。

これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感しました。

帰国後、「西洋事情」などの著書を通じて啓蒙活動を開始しました。

一時は幕臣として幕府機構の改革を唱えました。

またアメリカ独立宣言の全文を翻訳して「西洋事情」(初編 巻之二)中に「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」として掲載して日本に伝えました。

そして文久3年(1863年)長男の一太郎が生まれ、慶応2年(1865年)に二男、捨次郎が生まれました。


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