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江戸へ

 安政5年(1858年)江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために吉川正雄(当時の名は岡本周吉、後に古川節蔵)を伴い江戸へ出ました。

築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込みで、蘭学を教えました。

この蘭学塾「一小家塾」が後の慶應義塾の基礎となり、この年が慶應義塾創立の年とされました。

1859年(安政6年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かけますが、しかしそこでは専ら英語が用いられ、自身が学んできたオランダ語が全く通じなく、看板の文字すら読めないことに衝撃を受けました。

それ以来、英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などをたよりに、独学で英語の勉強を始ました。

同年の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン(Powhatan)号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸(江戸幕府がオランダから買い入れた木製の軍艦で日本船として初めて太平洋を横断しました)アメリカ合衆国に派遣することが決定しました。


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