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兄の死

 安政3年(1856年)大坂へ出て学びました。

兄が病死し、福澤家の家督を継ぐことになりました。

、大坂遊学を諦めきれなくて、父の蔵書や家財道具を売り払って40両の借金を完済した後、母以外の親類から反対されますが、これを押し切って再び大坂の適塾で学びました。

学費を払う余裕などはなかったので、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書を翻訳するという名目で適塾の食客  (住み込み学生)として学ぶことになりました。

安政4年(1857年)には適塾の塾頭となった諭吉は、適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験などをしていました。

ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出しませんでした。

適塾は医学塾でしたが、福澤は医学を学んだというよりは、オランダ語を学んだということのようでした。


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