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学問のすゝめ

 1868年(慶應4年)には蘭学塾を慶應義塾と名付け、多くの若者を教育するとともに、ヨーロッパやアメリカの政治や経済、歴史、文化などを紹介した「西洋事情」を書いて、国民を教え励ます仕事に乗り出しました。

維新後も洋学の普及を主唱、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えました。

1870年(明治3年)発疹チフスにかかり完全に健康を回復するのに二、三年は、かかりました。

さらに、諭吉は1872年(明治5年)から「学問のすゝめ」という本を書き始めました。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という書き出しから始まって、人間の平等、個人の権利などをわかりやすく説き、学問は役に立つ学問でなくてわならないとし、個人が役に立つ学問をして独立することによって、国の独立もはたされると主張したものでした。

1876年(明治9年)に「学問のすゝめ」は完結しましたが、各編あわせて300万部も売れて当時のベストセラーになりました。

諭吉は、たびたび政府の役につくように進められましたがそのたびに断り、自由の立場から学生を教え、言論活動をおこなって文明の進歩に尽くす、という姿勢をかえませんでした。

諭吉は、自分の立場を自ら「町人諭吉」と言う言葉で表していました。

1873年(明治6年)西 周(にし あまね)らと、明六社(めいろくしゃ)をおこして「明六雑誌」を発行しました。

明六雑誌は、政治、経済、社会、教育、宗教など多方面にわたる編集で明治時代初期の思想に大きく貢献しました。

1875年(明治8年)に「文明論之概略」(ぶんめいろんのがいりゃく)が刊行されました。

個人の自主独立が一国の独立と文明の基礎であるという考えを根本において、諭吉の主張が展開され古今東西の文明が発展してきた経過を解き明かし、国家の独立の為には、不合理な風習をすてて西洋文明の精神を取り入れる必要があることを説きました。

文明について諭吉の主張を展開したこの書は、広く読まれ諭吉の代表的著作になりました。

1880年(明治13年)専修大学(当時の専修学校)の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供し、青雲の志に燃ゆる若き指導者に、大きな協力を惜しまなかった。

1881年(明治14年)の政変で政府要人と絶交しました。


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