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学問との出会い

 天保6年(1836年)1歳6ヶ月のとき父の死去により帰藩し中津で過ごし始めます。

諭吉は母、兄姉と一緒に暮してはいたが、叔父中村術平の養子になり中村姓を名乗っていました。

後、福澤の姓に戻しました。

親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていませんでした。

諭吉は初め読書嫌いでしたが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。

しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさっていました。

安政元年(1854年)19歳で長崎へ遊学して蘭学を学びました。

ペリー来航により砲術の需要が高まり、オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないので、それを読んでみる気はないかと、兄から誘われました。

長崎の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞  (通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学びました。

安政2年(1855年)山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届来ました。

福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりもなく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行しました。

大坂へ到着すると、中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねました。

 兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得されました。

大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、緒方洪庵の適塾で学ぶこととなりました。

ところが腸チフスを患い、一時中津へ帰国しました。


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