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太子の死

 621年の暮れに太子の懸命のの看病もむなしく太子の母(穴穂部間人皇女)が亡くなると、年が明けた622年、太子も床に伏し、2月に入ると4人の妻のうち膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は、太子の回復を祈りながら2月21日亡くなりました。

 (太子には生前4人の妻がいて、最初の后・刀自古郎女(とじこノいらつめ、蘇我馬子の娘)との間に山背大兄王を始め男王3人、女王1人、膳大郎女との間に男王5人、女王3人、菟道貝鮹皇女(うじノかいたこノひめみこ、推古帝の娘、太子の従妹)は  正妃だけどお子がなく、橘大郎女(たちばなノおおいらつめ、推古帝の孫、尾治王の娘)との間に男王1人、女王1人、計14人の子がいました)そして、翌日の22日に膳大郎女の後を追うようにして聖徳太子も永遠の眠りにつきました。

「日本書紀」は人々の様子をこう記す「王族・諸臣及び天下の百姓ことごとく、長老は愛児を失うが如く、幼い者は父母を亡くした様に、泣き涙する声が巷に満ちました。

耕す男は鋤を手にとらず、杵を突く女は杵をとらず、皆「日月が光を失い、天地が崩れ落ちたようだ。

 今後、誰を頼りにすれば良いのか」と嘆いました。

享年48歳。

わずか3ヶ月で3人が亡くなっていることから伝染病ではないかと言われました。

622年、橘 大郎女(たちばなのおおいらつめ・太子のきさき)が亡き太子のために、子が没後天寿国に生れ変った様を図像にし、椋部(くらひとべ)の秦久麻(はたノくま)を令者(つかさ、監督)にして、采女達に織らせたのが中宮寺に残る我が国最古の刺繍「天寿国繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」で、それには太子の言葉「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真 (ゆいぶつぜしん)」、この世は仮で虚しく、ただ仏だけが真(まこと)であると書かれた「天寿国蔓茶羅恕ユ帳」を作りました。

623年山背大兄王らの願いにより、亡き太子のために鞍作止利(くらつくりのとり)が「釈迦三尊像」(しゃかさんぞんぞうを)作りました。


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