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摂政

 585年、太子の父親、第31代用明天皇が即位しなしたが、ほどなく父は病に臥した。

父は天皇として初めて公に仏教に帰依しました。

587年、太子が13歳のときに父が亡くなりました。

 馬子は先代の第30代敏達(びたつ)天皇の妃で太子の父の妹、額田部(ぬかたべ)皇女(後の推古天皇)を皇位継承者に推しました。

一方、物部守屋が敏達天皇の弟・穴穂部皇子を推した事で、ついに両者は戦場での対決となりました。

この戦乱では太子も蘇我軍として戦場に出ました。

戦いは物部氏に有利に進んでいましたが、太子が仏像を彫って四天王に勝利祈願したところ、自軍の矢が守屋に命中し形成が逆転して物部氏は滅亡しました。

戦後、額田部皇女は弟の崇峻(すしゅん)天皇を即位させましたが、崇峻天皇は馬子と仲違いして即位から5年目に暗殺されました。

 これを受けて592年、額田部皇女が日本最初の女性天皇として即位して、推古天皇となりました。

翌年の593年、推古の甥っ子で皇太子の聖徳太子が、19歳で摂政となり天皇の補佐にあたりました。

 太子は就任直後に、四天王へかつての戦の感謝を込めて難波に日本最古の官寺(国の寺)・四天王寺を建立しました。


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