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遣隋使の派遣

 607年に太子は、中国の王朝との国境を開こうとして、小野妹子を随に遣わしました。

はじめて、遣隋使を派遣しました。

妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。

太子が記した国書の文面は、「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。

お元気ですか?これを読んだ煬帝は激怒しました。

隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていました。

そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のよう「日没する国」とは無礼千万。

しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは・・・・。

煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど怒りました。

妹子は処罰されそうになりましたが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦して「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにしました。

また、妹子が公式な官位を持つ外交官であったことから、日本には整った官僚制度があり交渉が可能だと分かりました。

翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ日本式の礼(4度お辞儀をする等)を執ました。

太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は、ここに見事成就しました。

その後、数度にわたる遣隋使、遣唐使の派遣で多くの留学生・学僧を送り、彼らが吸収した知識を国政に反映させ、随と次におこった唐の制度・学問を学んで帰国し国の政治・文化の発展を高めました。


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