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「冠位十二階」「十七条憲法」を制定

 日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は「日本書紀』」は記載されていなく、中国側の歴史書にのみ載っていました。

発奮した太子は馬子との共同執政の中で中央集権化を進め、603年に、官僚制の基礎となる冠位十二階を、制定しました。

 朝廷につかえる役人たちに12階の位を定めて位に応じて色分けした冠をあたえたもので、冠をさずける基準は個人の才能や功績で、一代限りとしました。

(紫を頂点に、青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目でわかりました)これにより門閥(家柄による結びつき)をなくした人材の登用をめざしましたが、冠位をあたえられたのは畿内(現在の近畿地方の中心部)や周辺地域の中、小豪族で、蘇我氏はのぞかれました。

翌604年(30歳)には十七条憲法を制定しました。

 皇室中心の国家体制と、和(仲良くすること)の精神とによる政治や、役人の心がまえを説いたもので儒教的な徳治(道徳にもとづいて国をおさめる)思想を土台にし、仏教・法家(天下をおさめるの根本は法律であると説く、古代中国の学派)思想の影響を受けた文章で、法律というよりも教訓的な性質のものででした。

太子は馬子と相談して「天皇記」「国記」の編さんに取りかかりました。

これは、6世紀に成立していた帝紀(天皇の系譜)や旧字辞(神話・伝説)を材料にしたと思われていますが内容は不明でした。

このような政策は、いずれも皇室を中心とする集権的な体制を作り出そうとする現れでした。


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