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紫式部の余生・お墓

  虚弱体質であったらしい紫式部は寛弘七、八年の頃からは病気で私邸へ帰りがちになりました。

長和二年(1013年)にはかなり体調が良くなく私邸にばかり引籠って居ました。

その頃の歌は死の近づくことを予感した悲観的なもの  ばかり詠んで居ました。

翌、長和二年の六月に撫子の花を見て「垣根荒れ淋しさまさる床夏に露置き添はん秋までは見じ」と歌って、その年の秋までは自分の命が保つまいと云ったが、九月三十日に「花すすき葉分の露や何に  かく枯れ行く野辺に冴え止まるらん」と詠んでその年の秋まで永らえて居たことを自ら怪しました。

その頃、前に述べた年若の同輩の非常に美人であった小少将が先きに歿し、その遺稿を見ながら「暮れる間の身をば思はで人の  世の哀れを知るぞ且つは悲しき」と嘆き、自分が死んだら親しかった友の遺稿を読む人も無いのを思いやって「誰か世に永らへて見ん、書き止めし跡は消えせぬ形見なれども」と詠んでいました。

紫式部が生没年も伝わっていなく、  資料、作品等から1008年(寛弘5年)に30歳位と推測されるので、逆算して979年(天元2年)頃に生まれて、1016年(長和5年)頃、いつ、どこで、どのようになくなったのか、どのような晩年をおくったのかわかっていなく、紫式部  のような位の身分の人で、特に女性の場合、晩年の様子も亡くなった年もほとんど分かりません。

それでも、他の女性とくらべて紫式部の生涯が明らかなのは、宮仕えをしていたためいろいろな記録にちらほらのったり、自分で 書き残した為でした。

京都市北区紫野西御所田町に、平安初期、女流文学者・紫式部の墓と、学者で詩人、歌人の小野篁(たかむら)、お墓が並んであり紫式部のお墓には「紫式部墓」と刻まれていて、ムラサキシキブが実をつけて  いて、二人の大偉人の墓はひっそりと町中にあり、今も二人を偲ぶ人たちが、訪れては花を添えていました。

墓石の向かい側には、角田文衞氏による紫式部顕彰碑がたてられました。


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