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結婚と藤原道長との出会い

 長徳2年(996年)紫式部は、父の為時が越前の守となったので、父と一緒に人任地の越前(今の福井県)におもむきました。

 翌年京都に戻った紫式部は、まもなく又従姉妹にあたる、藤原宣孝と結婚しました。

宣孝は、父の友人であり20歳も年上でした。

(平安時代は、一夫多妻制度で、女性同士の嫉妬が渦巻いていた時代で、実際に紫式部の旦那さんも派手好きで、奥さんが3人もいいました。)

 やがて二人の間に女の子、藤原賢子(かたいこけんし)(大貳三位)が生まれました。

長保3年(1001年)、為時が越前国より京へ帰って来ました。

この年も疫病が流行り、あっけなく夫の宣孝が亡くなりました。

 わずか数年の結婚生活でした。

宣孝を失った悲しみを乗り越えて「源氏物語」の執筆を始めたのはこの頃でした。

寛弘2年(1005年)紫式部は一条天皇の中宮である藤原彰子(ふじわらしょうし)にめしだされて、 つかえることになりました。

さらに、歌人でもあった紫式部は、中古三十六歌仙の一人でもあり、『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選しました。

 紫式部は、多彩な才能を発揮した人物でした。

藤原道長も「源氏物語」の愛読者でその教養の深さから娘の家庭教師にと望みました。

その頃道長は、自分の娘を天皇の后にと思って娘の教育の為に教養のある女性を 集めていました。

真面目で内省的な紫式部には、内裏の雰囲気があわなく実家(弟邸)に帰りましたが、道長の再三の迎えが来て、ようやく1年後に覚悟を決めて出仕しました。

寛弘四年の夏から中宮の望に由って「楽府」を講したりもしたが、それも同輩の目に触れるのを避けてこっそりと講じていました。

寛弘五年(1008年)、五月五日に道長の土御門邸で催された法華経三十講の五巻の講席へ中宮にお供して列なって、人は皆 歓楽を語り藤氏の栄華を祝う日に、紫式部は自らの内心と周囲との対照に一しほ哀感の身を噛むのを覚えて眠り難く、夜明方に年下の気の合う友である小少将の局の格子を叩いて、共に廊へ出て池水に映る我が影を 眺めながら手をとりあって泣きました。

 寛弘八年(1011年)兄の惟規が父の任地の越後国で亡くなりました。

紫式部は兄を悼んで「いづ方の雲路と聞かば尋ねまし、列離れけん雁の行方を」と嘆きました。


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