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「紫式部日記」「源氏物語」

 紫式部の女房としての生活は、毎日が新鮮で驚きの連続でしたが、人間関係もあってうんざりしていました。

清少納言とは反対の紫式部はその婦人達と敢えて争そうとはしなかったが、あまりに侮辱や批難を受けては「わりなしや、人こそ人と云はざらめ、みづから身をや思ひ捨つべき」と歌って自重し、親しき友への返歌に「挑む人あまた聞こゆる百敷の住まい憂しとは思ひ知るやは」と云って歎息を洩らし「紫式部日記」(式部が書いた日記で2巻。

1010年頃に成立しました。

紫式部が宮づかえをしている間に見聞したことをしるす日記と和泉式部、清少納言、赤染衛門らも人物評を含む手紙からなり当時の様子をしるうえで貴重なな資料となりました。

) に於て宮仕の苦痛を細かに書き留めていました。

「紫式部日記」は、基本的には、道長が自分の栄華を残させようと、式部に作成を命じた「記録」ですが、その内容の中には、記事的部分の他にも、いわゆる「消息文」と 呼ばれる、手紙がうっかり混ざったような、随想的・雑記的部分があります。

その雑記的部分の中で、式部は同輩女房に対して非常に「萌え」ている観察をしていたりするのですが、中に一ヶ所ほど、毛色の変わった部分が ありまました。

 現在でも十分に有名な、同時代の女流文人について語っているひとくだりがあありますが、紫式部の彼女らに対する評価には、周囲の普通の女房に対する「萌え」はなく、同じ記女流文学者として、冷静で ともすれば冷徹なまでの観察眼を見せていました。

そうした中でも娘の賢子の成長と「源氏物語」の執筆が励みになっていました。

宮中での女房達は、高い教育を身につけ、中宮につかえていました。

才能の競い合いが、 高い王朝女流文学を生み出す事になりました。

最高峰ともいえる紫式部の「源氏物語」は、皇子誕生を待ちこがれる道長の喜びの中で書かれ、彰子が敦成(あつもり)親王を出産した御祝いとして献上された本でもありました。

 そのうちに、口コミによってたくさんの貴族たちに写本して読まれ、評判となっていきました。

でも、時に誤字や削られた箇所があるため、現存する本書は、完全なものではないといわれています。


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