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羅須地人協会

賢治は幼い頃から農民が冷害などで生活に困り、質屋に家財道具などを売りに来るのを見ていたので教師を退職してから新しい農民文化をつくるために羅須地人協会をつくり、稲作法や肥料の設計相談や講義をしたり農民のためになる事をしていきました。

しかし、協会が若干の支援をした事などで警察の調査受けたために協会の活動が出来なくなりました。

その後も農業指導は続け、駆け回った結果賢治が過労のために倒れてしまいました。

急性肺炎も発症し2年もの間、自宅療養をとりました。

しかし、この間も詩などの作品を残しました。

1930年9月、病状が少し回復してくると東山町の東北砕石工場を訪れ翌年の2月から砕石工場技師として働き出し、石炭肥料販売に奔走しました。

そして、9月に壁材の見本を持ち東京へ向かいますがそこで発熱し、病気の再発でした。

この時家族に遺書も書いていました。

それからは自宅療養する事になりその間もたくさんの作品をつくりましたが11月3日に黒革の手帳に詩を書き残していました。

これが有名な「雨ニモマケズ」で賢治の死後、発表されました。

この作品は発表後とても大きな反響を呼びました。

そして、療養中でも砕石工場や農民の肥料相談にものっていました。

1933年9月19日にも訪ねてきた人に会い、肥料相談に遅くまで応じて疲労し、9月21日に急性肺炎で亡くなりました。

遺言には国訳の法華経1000部を知人たちに渡してくれるように言い残し、賢治はお経を届ける事で知人たちが正しい道に進める事を願いました。


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