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国柱会〜教師へ

1920年10月、賢治は宗教団体の国柱会に入会しました。

翌年、父の政治郎が反対しても聞き入れず国柱会の活動をするために東京へと向かいました。

しかし、妹・トシの発病で花巻へ戻る事になり国柱会の活動は7ヶ月ほどしかありませんでした。

この時期に書きためた作品が多数あり、持ち帰りました。

その後、トシの看病もしながら稗貫農学校の教師となってからは演劇にも興味を持ち、劇の上演もしました。

そして、妹・トシの死後1923年に樺太を訪れて妹の死から立ち直ろうと旅行中に多くの詩をつくりました。

その翌年には花巻温泉や病院などの花壇の設計や製作もしました。

1925年には教師を辞めて農民になりたいと思い始めました。

この年には草野心平が編集する「銅鑼」に詩を発表していきました。

4号には「命令」と「未来圏からの影」を5月には「休息」と「丘陵地」と作品の発表を続けていきました。

その他にもクルミの化石を採集し、調査に協力もしました。

その後、農学校の退職を決めました。


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