スポンサード リンク

賢治と家族

宮沢賢治の家族構成

 祖父…喜助(天保11年9月5日生) 
 祖母…キン(嘉永4年4月9日生)
 父…政治郎(明治7年2月23日生)
 母…イチ(明治10年1月15日生)
 妹…トシ(明治31年11月5日生)
 妹…シゲ(明治34年6月18日生)
 弟…清六(明治37年4月1日生)
 妹…クニ(明治40年3月4日生)

 賢治の住んでいた花巻町では質屋だった為、名の知られた家でした。両親ともに浄土真宗の熱心な信者だったので幼い時から両親たちが唱えるお経を聞いて正信偈も暗記できるほどでした。母のイチは明るい人で家庭を支えていました。

 1902年(明治35年)9月、6歳の時に赤痢にかかり2週間の入院をしました。 その時、看病していた父にも感染し、以後父は胃腸が弱くなってしまいました。

 1918年(大正7年)大学生だった妹・トシが病気にかかり母・イチと東京に出て看病をしました。この頃に人造宝石の販売事業を考えますが父に反対されてしまいます。そして、1919年(大正8年)トシが回復したため岩手に戻りました。

 1920年5月、研究生修業後は店番をしますが父とは仕事や信仰の事で口論ばかりしていました。翌年、稗貫農学校の教師をし、妹の看病をしました。しかし、1922年(大正11年)11月27日最愛の妹・トシが病死すると賢治はとても大きなショックを受けました。詩の「永訣の朝」などでその死を悼む気持ちが表わされていました。

 1926年(大正15年)8歳下の弟・清六が父・政治郎と花巻に建築材料や自動車部品などを扱う宮沢商会へと転業しました。弟の清六は賢治が病に倒れた時期は看病もしてくれました。

 1933年9月21日、賢治は清六に本にしたいという所があれば出してもいいと原稿をすべて弟に託し、その翌日亡くなりました。

 それからは高村光太郎などの力を借り、翌年には宮沢賢治全集を出版しました。

 1945年(昭和20年)8月10日の空襲で宮沢家は焼失しますが賢治の遺した原稿は守られました。

 1957年(昭和32年)3月1日に父・政治郎が亡くなり、1963年(昭和38年)6月30日に母・イチが亡くなりました。

 その後2001年(平成13年)6月12日に弟・清六が亡くなりますが賢治の生前からの文学に関してよく理解していた清六がいなければ宮沢賢治の作品が世に出ることは無かったのではないでしょうか…

 そして、賢治の原稿は1981年(昭和56年)に花巻市に寄贈され、その後宮沢賢治記念館におさめられました。


menu
賢治と家族
石コ賢さん
優秀な学生時代
国柱会〜教師へ
羅須地人協会
菜食主義者?
賢治の趣味
賢治の作品
link