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朝日新聞社へ

1907年2月、朝日新聞社へ入社の話があり、3月に朝日新聞社で主筆であった池辺三山に会いました。

漱石は三山の才能を高く評価して いたので三山を信頼し朝日新聞社への入社を決め、作家への道へと進みました。

この時、入社の条件として年に1度100回位の長編小説を 書き、月給が200円でした。

そして、勤めていた東京帝国大学、第一高等学校に辞表を提出しました。

入社後の夏目漱石の初めての作品が「虞美人草」でした。

この頃、漱石は住まいを早稲田南町に移しますが、この家は亡くなるまでの間ここで過ごし、 作品を作り出していった所でもあり「漱石山房」と呼ばれていました。

とても広い家で庭もあり、十畳の洋間に絨毯をひいて書斎として使っ ていました。

また、門下生や朝日の関係者など面会に来る者が多かったので面会日を木曜日に決めたのが「木曜会」の始まりと言われました。

この木曜会には若い文学者たちが集い1915年(大正4年)には小説家の芥川龍之介や久米正雄も参加しました。

それから、池辺三山が朝日を辞職する事になり、原因が漱石に対する批判だったので漱石自身も辞職を考えますが反対されてとどまりました。

三山が辞職したのが1911年11月、その翌年2月に心臓発作で急逝してしまいました。

漱石は五女・雛子を亡くしたばかりでもあり、突 然の三山の死をとても悲しみました。

そしてこの頃、養父・塩原昌之助からお金を無心されていました。

その後は執筆と療養を繰り返しながらも作品を書き続け、亡くなる前も「明暗」を連載中でしたが漱石が亡くなり未完のまま連載が終了され る事になりました。


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