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正岡子規

正岡子規は1867年【旧暦 慶応3年9月17日】に愛媛県松山市で生まれ、本名は常規でした。

1883年6月に上京し、1884年に大学予備門に入学しますが1885年の学期末試験に不合格になり落第しました。

1889年1月頃に漱石と知り合い、趣味の寄席の話などで親しくなっていき文学的影響を及ぼしあいました。

同年5月に子規は肺結核に罹 り肺病の象徴だった時鳥(ホトトギス)の句をつくり「子規」という号を使うようになりました。

漱石の号は子規の「七草集」の批評を書い た時に初めて「漱石」という号を使いました。

この「漱石」は明治14、5年頃に子規が使っていた号でもありました。

1892年(明治25年)子規は学期末試験に不合格となり落第が決まると翌年の3月に大学の退学を決めますが、漱石は退学しないように 最後まで引き止めました。

その後、漱石が1895年に愛媛県で英語の教師をしていた時期に子規が療養のため松山に帰ってきたので漱石の 下宿の部屋に住まわせました。

1900年にイギリス留学中も手紙のやり取りをしますが漱石の手紙を待ちながら1902年(明治35年)9月19日、35歳の若さで亡 くなりました。

漱石が日本に帰国後、子規の後を継いでホトトギスの経営をしていた高浜虚子に小説を書く事を勧められ1904年(明治 37年)12月に「吾輩は猫である」を書き、山会で発表しました。


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